2150年
朝から一日空には厚い雲が垂れ込めていたが、夕方にわずかに日が差し、雲は透き通るような色で照らされて鮮やかな橙色と灰色のグラデーションを成した。まるでそれが合図であったかのように、工場建物の大屋根に建つ時計塔が17時のチャイムを響かせ、一日の業務の終了が告げられた。
私は適当なところで手元の作業をやめ、脱衣所へ向かう。鉄粉と機械油で真っ黒に汚れた作業服を脱ぎ、勢いをつけて振るうと服の繊維に付着していた鉄粉が宙に舞い、夕日がそれにきらきらと反射して一瞬綺麗だと思った。脱衣所脇の洗面台、蛇口を捻ると茶色い水が噴出した。水道管が腐っていて、錆汁が溶け込んでいるのだ。濁った水で手を洗い、爪の間に入り込んだ油を落とす。顔を上げると鏡には、つい先ほど牢獄から出てきましたというような疲れ切った男の顔が写っていた。
鏡から顔を背け、作業着を丸めてカバンに詰め込み、ロッカーに入れておいた私服に着替える。ほどなくして夕日も落ちきり、薄暗くなった脱衣所から一人、また一人と私と同じような作業員が姿を消していった。
バイクに跨り港湾道路を走ると、崩壊した構造物が多く目につく。倒れかけたまま放置された信号機、自動車か何かがそのまま放置されたのか、鉄屑の塊が道路脇に捨てられていて、そこから夥しい量の錆汁が路面を汚している。路面も所々陥没している。注意を促す看板は立てられているものの色褪せており、修繕するつもりも、する体力ももはや残っていないという雰囲気だった。
著しい人口減少と経済停滞を経て、この国の生活水準はおおよそ200年前の1950年代まで逆戻りしていた。繁栄時代に築かれた頑丈な公営住宅やインフラ施設を騙し騙し使い続けてきたが、それもとうに限界を超えているのだ。
ふと、同居人から帰り際にアイスクリームを買ってくるように頼まれていたことを思い出し、途中の商店へ立ち寄った。
「アイスクリームか」と一人呟いて笑う。荒廃したこの国でも、港湾地区はまだマシな方なのだ。なにせ製鉄所があるおかげで石油資源が定期的に供給されており、発電所も稼働している。電気があれば、灯りが点る。冷蔵庫も動く。
店内には冷蔵庫が稼働するブーンという音がやる気なさげに響いている。ガラス扉を開けて商品を取り出したあと、そういれば、と衣服用の洗剤が切れていたことも思い出しついでに持ってカウンターへ向かった。
「またあの子の分かい?」初老の店主はアイスを見てそう声をかけてきた。
「夏になるとこればっかり頼まれて」と私は笑った。
「まだ六月だから、今年は去年よりも少し早いんじゃないかい?」と店主はアイスと洗剤を手際よく紙で包みながら呟く。包み終わると、メガネ越しにじろりとこちらを見て「アイス買いに来るの」と付け加えた。
「そんな、梅雨入りの予報みたいな」と私はもう一度笑った。
貧しいながらも、我々はそれぞれの日常を送っていた。そもそも貧しいなどと思うこともなく、これが当たり前だと思って生きている人の方が多いかもしれない。店を後にし、バイクを家路へ向かい走らせながら、そのようなことを思った。
私が何かにつけてこう世の中を観察する癖がついたのは、紛れもなく、本日、今季初めてのアイスを所望してきた同居人の影響によるところが大きかった。彼女は私の腐り切った日常にまるで彗星のごとく現れ、そして何が気に入ったのか、私の生活にするりと入り込み、家に居座るようになった。そして何かにつけてあれこれと世の中のことを説明しては「昔はもっと便利だったんだよ」と笑った。
彼女は随分と幼い見た目をしていて、私よりもずっと年齢も若いはずだった。それなのに、いつも古い時代の本を読んでいた。背表紙が擦り切れ、紙も劣化してよく読めないような本を彼女は大切そうに読み、読み終わってはその内容を楽しそうに私に話した。本の話をしている時以外はたいてい日常の何ということのない話や、彼女自身の思い出なんかを話していた。私の家へ転がり込む前は、この街の繁華街で体を売っていたと彼女は説明した。
港湾道路はやがて急傾斜の坂道になり、周囲にコンクリート造の公営団地が見られるようになる。公営団地、といってもそれらが建てられたのは一世紀以上も昔で、今や誰が管理しているのかもよく分からない。経済停滞により半ば廃墟と化していた建物群へ、いつからか私のような港湾地区で働く賃労働者が流れ着き、公営団地は廃墟から一転して無法地帯となった。
坂道の行き止まり、無数にバイクや自転車が並ぶ一角に私も自分の愛車を停め、脇の階段を駆け上がって居住区へと向かう。敷地内にはあちこちに私物が散乱し、建物の構造も真改造されている。
「おーい….」渡り廊下を歩いていると頭上から呼び止めるというわけでもなく、間延びしたような声が聞こえ、顔を上げた。見ると誰かが家具でも拾ってきたのか屋上に近い階の窓が開け放され、そこからロープが垂らさればかに大きい荷物が引き上げられているところだった。
落ちてきてはたまらないので足早に通り抜ける。各々が勝手なコミュニティを形成しつつ、それなりに日常を送っているのだ。
渡り廊下を抜けた先の部屋が私の住まいだった。
扉を開けて足の踏み場のない玄関を飛び越える。薄暗い部屋の奥の布団のふくらみに向かって「帰ったよ」と声をかけた。布団の膨らみはしばらくもぞもぞと動いたあとで「アイスは?」とくぐもった声で返事を返した。
「ほら、買ってきたからさ」と言って布団の脇にアイスを置き、台所から持ってきたスプーンを隣に置いた。
「今年は去年よりも買いに来るのが早いんじゃないかってさ、店のおじちゃんが笑ってたよ」と付け加えた。
「だって暑いんだもん……」彼女はようやく布団から顔を覗かせ、アイスに手を伸ばす。
「暑いなら布団なんかに入ってないでさ」と私は言ったが、彼女はそのよく澄んだ細い目で私を鋭く見たあと「だって、暑いよりも日差しが苦手なんだもん」と呟いた。
「先、風呂入ってるよ」そう言って私は上着をまとめて洗濯機に放り込み、風呂場へ向かった。
彼女がアイスの包みを捲る音が聞こえる。「んえぇ、溶け始めてる……」
呟く声を背中で聞き微笑みつつ、私は風呂場の扉を閉めた。
三上夏帆 1
2025年
「やだ、溶け始めてる……」
待ち時間で並んでいる間に大部分が溶けてしまったと予想されるアイスクリームを机の上に置いてみたが、その包みを指でつまんだときのぷにぷにとした感覚から、案の定内部が殆ど液体であると察した。
東海道新幹線「のぞみ」博多行き、車内。平日金曜の午後、車内は比較的空いているようだったが予約を取ろうと思ったときには既に窓側の席は埋まってしまっていた。通路側は手洗いに行きやすいし良いかなどと前向きに受け止めつつ、数年ぶりの帰省路に着いたのだ。
ビニール袋を探ってスプーンを取り出してから、液体になったアイスクリームがこぼれ落ちないように注意しながらゆっくりと掬って口に運ぶ。側から見れば相当にまぬけた格好になっているはずだったが、隣の席の若いサラリーマン風の男は相当に疲れているのか、座席に座り込んでからほどなくして眠りこけてしまっていた。アイスクリームは途中でやはり数滴こぼしてしまったので、鞄からハンカチを取り出して膝の上に置いて、最初からこうしておけばよかったと思った。
少しのち、案内放送があり列車は音もなく出発した。車窓には都心風景が高速で展開される。古びたコンクリートのモノレールや、室外機が無限個数並んでいるマンションや、再開発中のどこかの駅といった風景が次々と現れては消えていった。私はそれを眺めつつ、アイスクリームを口に運び、横浜駅を出発する頃にはあらかたそれも片付いていた。
いつのまにか眠り込んでいたようで、目を覚ますと窓の外には田園地帯が広がっていた。分厚い雲が垂れ込めた空のもとで、つい先日田植えをしたばかりというふうに水をたっぷりと湛えた水田が区画整理された住宅街さながらに並んでいる。そのような車窓風景を眺めているうちに、水田地帯はソーラーパネルに変わり、そして住宅街になった。住宅街を眺めていると背の高いビルがぽつぽつ目につくようになり、地鉄の駅のようなものが見え、そしてその駅前を通り過ぎてしまうとまたソーラーパネルが現れ、風景は水田地帯へ戻った。ここはどのあたりなのだろうかと考えていると、遠くの工場に近江と書かれているのが目に入り、滋賀県であることが分かった。
隣を見ると、サラリーマンは相変わらず熟睡していた。これは終点まで行ってしまうかもしれないなと思いつつ時計を見て、広島まではまだかかりそうであることを確認してもう一眠りすることにした。
広島へ着いたのは17時を少し過ぎた時間だった。
今夜は、広島に住んでいた頃の友人の家に泊めてもらえることになっていた。彼女の家は広島市街から少し南へずれたところにあるアパートで、そのあたりへは路面電車でアクセスできるはずだった。私は慣れない駅構内をぐるぐる巡った後、街がよく見渡せる路面電車乗り場の外れで時間を潰すことにした。
駅前が再開発で大分変わっているとは聞いていたものの、実際に目の前にするとこれがあの見慣れ広島駅なのかと驚く。まだ工事中なのか駅前にはフェンスで囲われた区画がいくつかあり、クレーンや重機といった工事車両がその中に点在していた。
風景を眺めるのにも飽きると、私は先ほど新幹線を降りる時のことを思い返した。荷物棚にあげておいた紙袋などを取り出すために背伸びした時、サラリーマンが窓際に置いているチケットに目が入り、私と同じ広島で降りることに気づいたのだ。少し悩んだが、起こさないのも悪いと思い少し肩を揺すって「広島ですよ」と声をかけ、彼が慌てて飛び起きるのを見届けてそそくさと車内を後にしてきたのだ。彼が目を覚ます時に一瞬目が合い、眠っていた時には気づかなかったものの、よく整った顔立ちをしていると思った。彼はいつもあのような生き方をしているのだろうかと思った。眠るなら眠るで広島駅に着く前にアラームをセットするくらいしておけば良さそうなものだが、行き当たりばったりな性格なのかもしれない。ただそれにしてはしっかりした顔立ちをしていたので、それだけが気になっていた。
適当に考えを巡らせているうちに路面電車が到着し、昔使っていたICカードが反応せず焦ったりしつつもなんとか乗り込んだ。座席に腰をおろし地図を見ようとスマホを取り出したところで、友人からの連絡が入っていることに気づいた。
時刻を見ると今日の昼過ぎで、ちょうど東京で新幹線に乗り込んだ頃に送信されていたことになる。色々どたばたしていたので見落としてしまっていたのかもしれない。
「ゴメン!今夜のことなんだけど彼氏が泊まりに来ることになっちゃって……。ホテル代は私が出すから駅前のホテルとか空いてたら泊まって欲しいんだけど……」
「マジか……」と思わず声に出して呟く。広島を出てからは長い間やりとりをしていない友人だったので、断られても仕方ないとは思いつつ、彼氏が泊まりにくるから、というところが昔から変わってないと思った。
彼女とは高校時代の吹奏楽部からの付き合いで、当時から彼女の周りには色恋沙汰が多かった。ただ出身が私と同じ島だったので一緒に行動することも多く、それなりには仲がよかったつもりだったのだが。
「わかったよー!私しばらく広島に住むことになりそうだから、また機会あれば飲もう。ホテル代は気にしないで!」ビールジョッキの絵文字と合わせて送り、彼女から申し訳なさそうな顔のスタンプが送り返されてきたのを確認して、ため息をついて上を向いた。車内にはさまざまな広告が吊り下げられていた。瞬間的にホテルの広告を探したが、さすがにネット予約の時代だからかそれらしきものは見当たらない。その代わり、転職や人生相談といった内容が多く、いかにも生きづらい世の中という感じだった。
「次は稲荷町、稲荷町」車内放送があったのち、電車がガタンと揺れて進行方向を変え、少し進んで止まる。こうしている間にも路面電車は運行しており、早く降りるか、適当な電停で乗り換えて駅前へ戻らないと郊外のよく知らない街まで連れて行かれてしまうのだろうが、もう少し乗っていれば繁華街だし、そこまでは乗っていても良いような気がした。
「人間関係の悩みごとに、あなたの人間運をアップします」
吊り広告のなかのひとつ、胡散臭い文字が目に入った。人間運ってなんだとつっこみつつ、ふと今回はるばる東京から広島に来ることになった理由がそもそも人間関係に起因することだったので、心当たりがあることに後ろめたく思った。
元々私は広島の小さな島の出身だった。本土の学校に通いつつ自然と戯れる幼少期を過ごしていたわけだが、都会に憧れて大学進学で地元広島を出て上京することを選んだ。華の女子大生、それも東京都心ということでアルバイトなんかに明け暮れるうちにすっかり都会の生活にも慣れ、そのまま都内の会社に就職し、数年はうまくやっていたつもりだった。しかしうまく行かない時はあったいう間に計画路線から外れていくもので、人間関係のちょっとした行き違いから職場にいづらくなり、今年の初めに休職していたのだ。休職期間のあと、もとの部署には戻りづらいから所属を変えて欲しいと恐る恐る上司に相談したところ、「君、瀬戸内の出身だよね。ちょうどいいところがあるんだ」と二つ返事で地元広島の小さな事業所に出向することが決まり、こうして懐かしい広島へ戻ることになったのだ。
「次は八丁堀、八丁堀」列車は電飾が灯る大通りを勢いよく進んでいた。タクシーやバス、宅配業者のトラックが路面電車と並走し、時々右左折で電車の前を横切っていく。よくぶつからないものだと感心していたが、住んでいた頃はよく接触事故のニュースがあったことを思い出し、私が乗っているうちはぶつからないで欲しいと思った。
八丁堀の電停で降りると目の前が大きな百貨店の建物だった。高校時代の課外学習で、この建物は被曝建物であり戦後焼け残ったあと修理されて今も使われているというような歴史を習ったことを思い出した。ちょうど閉店の時間のようで、清潔感ある制服に身を包んだ店員が入口でお辞儀をし、シャッターが下ろされているところだった。私はその横を通り抜けて横断歩道を渡り、向かいのビルへ入った。ここも旧百貨店の建物で、戦後の高度経済成長期に開発された大型のテナント施設だ。あちこちに昭和レトロな空気を漂わせつつ、現在は携帯ショップやら電気店やら色々なテナントが入っている。そして記憶が正しければ、この建物の最上階に結構遅くまでやっている書店が入っており、そこの一部分が喫茶店になっていたはずだ。高校時代、吹奏楽部で楽譜を買いに来たり、付き合っていた彼氏とデートで訪れたことのある懐かしい場所だった。回数表示が電球ランプ式の古いエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す。ウィーンと音を建ててゴンドラが上昇し、小窓から地上の明かりが階下に吸い込まれるように消えていくのが見えた。
猫耳少女 2
2150年
フライパンがコンロの上で揺れるガタガタという音で意識は覚醒した。薄く目を開けるとぼんやりとした視界が部屋のおおまかな輪郭を捉え、徐々にそれもはっきりしてくると、台所の前に立って何か料理をしている彼女の姿が見えた。
時間をかけて身を起こし、布団を軽く畳んでから窓際へ行きカーテンを僅かに開く。窓からは港湾地区のクレーンと、海岸通りへと続く長い坂道が見えた。朝早い時間であるためか、道路に人通りはない。しんとして動かないクレーンは、昔どこかの街で見た駅前の彫刻作品のようだった。
開いたカーテンの数センチの隙間から初夏の強い日差しが鋭い光線のようになって部屋に差し込んでくる。夜の間に冷えこんだ部屋の空気に、それが心地よい。
振り向き、「おはよう」と台所の彼女に声をかける。
「おはよう、早いね」と彼女も答える。
「仕事の時はいっつもこれくらいだけどね」と私は答えた。彼女に近づき、フライパンを覗き込む。可愛らしい目玉焼きが二つ出来上がっていた。
「美味しそうだ」と言うと彼女は微笑んで「ワタシにも、料理ができるのだ」と自信いっぱいという顔をした。
「ご飯の冷凍ってまだあったけ」と言って冷蔵庫を探し、ビニールに包まれた白色の塊を二つ取り出す。あらかた家電は揃っているものの電気炊飯器はなかなか高価で手が出ず、公営団地内の共同炊き出しでもらってきたものを適当に冷凍して保存しているのだ。
彼女がフライパンをうまくひっくり返しながら、目玉焼きの黄身の部分を割らないように気をつけながら皿に移しているのを横目でみつつ、年代物の電子レンジに冷凍白米を放り込んで温める。机の上に茶碗とコップを並べ朝食の支度をする。
「あ、割れちゃった」と彼女が小さく呟く。見ると、二つ焼いた目玉焼きのうちの一つがフライパンに焦げ付いてしまい、皿に移すときに崩れてしまったようだった。
「割れたやつは、キミが食べるのね」と彼女は本当に残念だというような、目に涙を浮かべるわざとらしい仕草をしながら私を見た。
「オリーブオイルを買っておくよ」と私は答えた。
休日はたいていいつも彼女と出かけることにしていた。今日は、彼女が以前から行ってみたいと言っていた高台の空見地区へバスで行く予定にしていて、そのためか彼女はいつもよりも元気そうだった。
「ねぇ、鳥になってみたいと思わない?」
朝食を食べつつ、彼女はそう言った。
「鳥に?」
「うん。もし鳥になったら、わざわざバスに乗らずにも遠くへ行けるのに」
「確かにね」
私は答えてから、我々が鳥になって好きに飛び回っているところを想像した。我々は港湾地区の上空をしばらく自由に飛び回ったのち、お互いへ気持ちを伝えるように乱れるように相手の近くへ近寄っては離れてみたり、そうして戯れつつ公営住宅の巣へと帰っていった。ふと、それは妄想ではなく、現実の光景としてみたものであることに気づいた。時折仕事場に姿を見せる季節の鳥は、よくそのように空を飛んでいた。確かに、私が彼らであったらもうすこし平和に生きることができたのかもしれない、と思った。
朝食をとったあと、私が皿洗いをしている間に彼女は身支度をしているようだった。
皿洗いがひと段落ついても、彼女はまだ鏡に向かい合っていたので私は台所の椅子に座り、壁際に高く積まれた本の背表紙に目を通していった。私が読んだことのあるものは一つもなく、ほとんど全て彼女がどこからか持ち込んできたものだった。
「お待たせ」といって彼女が私の前に立った。
見上げると、彼女は水色のワンピースに身を包んで、頭をふわりとした素材のヘッドドレスで包んでいた。顔は自信いっぱいという感じで、その様子に思わず顔が綻ぶ。
「可愛いよ、本当に」と私は素直に感想を述べた。
「当然よ」と彼女は言って、「いきましょう」と私の手を取った。
今日という日においてだけ、私はしがない溶接工の身から、世界で一番美しい女性の介添人になる。機械油と鉄粉で黒ずんだこの手を、何の躊躇もなく触れる彼女という存在を、私は守り続けなければならないと感じていた。幸福という言葉が持つすべての意味において、彼女は幸福に生きなければならない。
バスは時刻表に記された時間より5分ほど遅れてやってきた。私はその間公営団地をぐるりと取り囲むコンクリート擁壁にもたれて、横のベンチに座る彼女の頭上に日傘を差していた。彼女の表情を見ることはできなかったが、ほっそりとした白い腕が時々動いてスカートの裾を直したりするのを静かに眺めていた。
空見地区まではバスで二十分ほどだった。その間、バスはひたすら山裾のくねくねと曲がりくねる坂道を登り続け、右側の窓には広大な造船所とクレーンの風景が映されていた。左側の窓には我々が住んでいるのと似たような公営団地や、人が離れてもうだれも住んでいない家々の残骸が見えては後方へ流れていった。そのような山道を登りきった、ほぼ山頂近くに空見地区は位置していた。我々は終点の転回場でバスを降りたあと、見晴らしが良いことで有名な公園へ向かった。バス停から数分歩いた高台にあるその公園は、想像していたよりもこじんまりとしていて、小さなベンチがいくつかと、中央に飲み水用の噴水蛇口を併設した手洗い場があるくらいだった。
彼女は私が手元に持っていた日傘を奪うとベンチの方へ足早に歩いて行き、手を挙げて遠くを見るような仕草をした後「すっごく眺めがいいわよ!」と言って私を手招きした。
私は彼女の隣に並び、その風景を眺めた。我々が住んでいる公営団地よりもはるかに標高が高い、造船所のクレーンも、港の船もまるで小さなジオラマのように一望できた。普段港湾地区で働いていると気づかなかったが、こうして高台から見渡すと海の色は港の外のあたりで明確に切り替わっていることがわかった。手前の港湾地区に近い側は普段見ている鈍色の暗い色の海だったが、港から外へ目をやると太陽の光を反射して青色に輝いている。その遠くに見える海と空の青さが、ほとんど同じくらいの透明度と深さを持っていることに気づき、感動した。二つの青さの間のちょうど水平線のあたりに僅かに島が浮かんでいる。島はゆるやかな山形をしていて、木々は初夏の大気を吸い込み見事に葉を茂らせて濃い色を湛えていた。島をぐるりと取り囲むように僅かに白色の砂浜が水平方向に伸びており、様々な種類の青さの境界を成している。私はそのような光景を前に言葉を失い、ただ見惚れていた。
「バイクの音が聞こえるわ」と彼女は言った。私はすこし注意深く耳をすませてみたが、聞こえなかった。
「坂道を登ってくるわ」と彼女は下の方を指差した。今度は私にもそのエンジン音が聞こえるようだった。間も無くして、遥か眼下の海岸道路をバイクが走り抜けて行くのが見えた。
「相変わらず、耳がいいね」と私は言った。
「当然よ、だって私、猫だもん!」そういって、彼女は手に持っていた日傘を傾けて顔を覗かせると、頭の上についた大きな耳をぴこぴこと動かせてみせた。
「この世界で唯一の、猫耳少女なんだから」